「なんか、色々しちゃったな。もう少し時間掛けて見て回るはずだったのに」
「そうですね。でも、アキラさんと色々なところを回れて楽しかったですよ?」
二人で過ごすには些か広すぎる部屋の中に戻ってきて、香苗はそうやって笑っていた。
夕食までは、まだ時間がある。
「な、香苗」
陽が落ちた部屋の中で、橙色の落陽が香苗の頬を照らしていた。
顔に影が落ち、普段よりも大人びて見える彼女の表情に、思わず生唾を飲み下す。
「どうかしましたか?」
「いや……なんか、こうしてると、俺たち本当に結婚したんだなぁって思って」
「今更、ですね」
こてんと首を傾げられて、思わず俺も笑ってしまう。
確かに今更だ――ただ、ちょっとノスタルジーな気分になっていたのかもしれない。
「そうだなぁ。……あ、そうだ、夕飯どうする? 部屋で食べて、ゆっくり温泉ってのもいいかなって思うんだけど」
「温泉……そうですね! まだ温泉に入ってませんでした……ここは備えつけの露天があるって、彩葉さんが言ってましたけど」
こういうところに泊まる客は、あまり人前に姿を見せたがらないような階級の人間ばかりだろう。
大浴場も魅力的だが、わざわざ部屋を出なくても露天があるというのはいい。それに、ここなら香苗と一緒に風呂に入ることだってできる。
「大浴場、いきたい?」
俺は頭の中に浮かんだ妄想、もとい彼女の裸体から無理矢理意識を逸らして、至極紳士的にそう尋ねた。
せっかくの旅行なんだし、ここは妻の意見を尊重しておきたい。
「えっと……あの、大浴場も、いいんですけれど……」
ごにょごにょとどんどん声が小さくした香苗は、ややあって両方の頬を真っ赤にしながら息を吐いた。
「……アキラさんと、いっしょにお風呂に……入りたいなぁって、思って」
「なっ……!」
「い、イヤだったら大丈夫です! で、でも……せっかくの新婚旅行、だし」
そう言って、香苗はするすると俺の体に擦り寄ってくる。
柔らかい二の腕や胸を軽く押しつけ、丸い目を涙で潤ませておねだりしてくるのだ。
「いやなわけ、ないだろ……そりゃ、俺も香苗と一緒に……露天風呂、とか、入れたらなぁとは思ったけど」
なんだ、なんでこんなに恥ずかしいんだ。
ぶっちゃけ香苗とは、一緒に風呂に入るよりも恥ずかしいことを何度もしてきているのに――時々彼女が見せる、こうしたおねだりに弱い。なんでもお願いを聞いてあげたくなってしまう。
「か、香苗――なんだったら、今から入るか?」
腹の奥がかぁっと熱くなる感覚に、俺はそんなことを口走っていた。
一歩間違えば速攻で準備完了、今すぐ彼女を抱ける状態だ。
だが、香苗はそんな俺にほほえむと、ほっそりとした人差し指を自分の唇に押し当てた。
「まずは、お夕飯をいただいてから……ね?」
「じ、焦らすなよ」
「だって、お腹がすいたままお風呂に入って、アキラさんが倒れちゃったら困りますもん」
まぁ、それもそうか……。
香苗の言葉に納得した俺は、ここに来た際に渡された彩葉さんの電話番号へ連絡をした。
エグゼクティブスイートであるこの部屋には、シェフがわざわざ料理を作りに来てくれる。
ただ、その連絡は彩葉さんに入れてくれと言われていたのだ。
「彩葉さん……ですか」
「うん? どうかしたのか?」
「いえ……その、アキラさんが彩葉さんとかなり親しげだったので……」
「あぁ、年も近かったし、昔は色々遊んでもらってたんだよ」
男兄弟だったこともあって、彩葉さんと遊ぶのは幼心にも新鮮だったように思う。
兄貴達と面白がってホテル内でかくれんぼをし、挙げ句道に迷って泣きじゃくっていた俺を見つけてくれたのも彩葉さんだ。
全寮制の女子校に通い始めてからは、ずいぶん長い間会えていなかったが――このホテルの支配人として就任した彼女は、ほどよく熟れた大人の女性になっていた。
「昔から、アキラくんがくると後ろをくっついてくるんだもの。お姉ちゃんみたいに思われてたのね」
「あぁうん、姉さんみたいっていうのは――って、彩葉さんっ!」
いつの間にここにきたんだ。
彩葉さんの声を聞いた俺は、飛び上がらんばかりの勢いで驚いた後、香苗を見つめた。
「もう、彩葉さんを呼んでくれたのはアキラさんじゃないですか。メニューを届けて下さったんですよ?」
「あ、あぁ……そうだったんだ。ごめん、彩葉さん」
俺が謝ると、彩葉さんは真っ赤な唇に手を当てて、くすくすと笑っていた。
「アキラくんはお疲れなのかしら? ここの温泉は疲労回復に効果があるから、是非試してもらいたいわ」
「あぁ、うん。それはね……」
休みをもぎ取るために仕事も頑張ったし、今日は歩き回って腹ぺこだ。
少し遅れてやってきたシェフが焼いてくれる鉄板焼きや、この辺で名産になりつつあるというワインに舌鼓を打つ姿を、彩葉さんはまるで給仕のように見守ってくれる。
「アキラくん、見ない間にこんなにかわいいお嫁さんをもらっちゃうなんて……わたしなんか、三十二歳にもなってまだ恋人もできないのに」
「彩葉さんは美人だから、すぐに恋人もできるだろ? 俺は香苗と出会えなかったら、多分結婚なんてできてなかったし」
そう思うと、やっぱり香苗は俺の女神だ。
こんなに可愛くて、俺のことを考えてくれる、しかも
巨乳の女神様。
デザートのシャーベットを食べて幸せそうに笑っている姿を見るだけで、これまで感じていた疲れもどこかに飛んでいってしまいそうだった。
「そう……本当に、いいお嫁さんをもらったのね」
「え? 彩葉さん?」
「ごめんね、二人とも――この後、少し出ないといけなくて。なにかあったら、内線で連絡をくれたらすぐに人をよこすわ」
そう言って部屋を出ていってしまった彩葉さんの背中を、俺と香苗の二人はただ眺めていることしかできなかった。
「あ、彩葉さん……なにかあったのかな」
「……アキラさんは、鈍感すぎです」
「え?」
困ったように眉尻を下げる香苗に、俺はただ首を傾げるしかできない。
ともあれ、食事が終わったのだ。
そうなったら後は、風呂に入って休むだけだが……正直、この風呂に入るというのが今日の一大イベントだったりする。
スタッフによって食器が綺麗に片付けられた後、香苗は先に露天へ向かっていってしまった。
ロケーションが最高だというこの部屋の風呂からは、昼は町の反対にある山々を眺めることができ、夜は満天の星空の下で温泉に浸かることができる。
「せ、せっかく一緒に入るんだから、ちょっとくらい触ってもいいよな……」
ゴクリと音を立てながら生唾を飲み込んだ俺は、腰にタオル一枚だけを巻いて外に出た。
やや冷たい風が肌を刺すが、もうもうと立ちこめる湯気とほんのりと灯る橙色の電灯がやけに温かそうに見える。
「アキラさん」
そう俺を呼ぶ妻は、既に体を洗い終えて湯船に浸かっていた。
出会ってから少しだけ長くなった髪をタオルでまとめ、白くほっそりとした体をお湯に沈めているところを見るだけで、喉がカラカラになりそうだった。
「先に体洗うから、もうちょっとゆっくりしててくれよ」
「でしたら、お背中流しましょうか?」
「いっ、いや……平気」
なかなか魅力的な申し出だったが、どうにもまだ緊張してしまう。
夫婦なんだから、兄さん達みたいに人目も憚らずイチャついてもいいんだが――やっぱり、香苗が年下だし、もう少し大事にしてやりたいという気持ちもあるのだ。
俺はわしわしと勢いよく体を洗い、熱いお湯で泡を全て流した。
十歳近く年下の妻と並んで歩くのに、これでも最近は身だしなみにも気を付けるようになってきた。前はそんなことはどうでもいいと思っていたけど、香苗の隣に立つのにみすぼらしい恰好はしたくない。
「お湯、どんな感じ? 熱いかな」
「ちょうどいいですよ。ほら、ここに座ってみると、お星様が綺麗に見えるんです!」
はしゃいだ声を上げる香苗につられて、俺も小さな湯船に足をつける。
二人で浸かっても十分な広さの露天風呂は、なるほど確かに良い眺めをしていた。
ふと空を見上げると、きらきらとした無数の星が絨毯のように広がっているのだ。
「うわー、東京じゃ見れない光景だなぁ……この辺は夜になると静かだし、空気も綺麗なのかもしれないな」
「そうですね。――こんな景色をアキラさんと見られるなんて、しあわせ……」
ほう、と息を吐いた香苗の横顔に、俺の心拍数はどんどん上がる。
少し赤くなった頬に、濡れた髪の毛――いつもの風呂上がりと変わらない姿であるはずなのに、屋外ということと、ここが自宅ではないことが更に俺の劣情を揺さぶった。
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